八月某日正午、クロントイ

 

1991年8月のある日、僕はクロントイの税関本局にいた。 

 クロントイ交差点の角に立つ税関本館はタイの役所の建物のなかでもバランスのよい白い美しい建物である。例にもれずその前庭も裏も駐車する車で一杯なのは、今バンコクの役所どこへいっても同じである。

 正面玄関の車寄せのある玄関から入り口をはいると天井の高いホールがある。表の強烈な太陽光線にさらされた訪問者の目には、一瞬穴蔵のような暗さに思える。しばらくしてそこがけっして暗くはない場所であることに気付くのだが、それでも外の強烈な太陽光のとどかないそこは薄暗いようにがらんとしていていて、空気はひんやりとしているように感じられる。しかしそれも錯覚で、叩きつけるような太陽からの熱線は届かないものの、その日、午前中とはいえ8月の湿った空気はその埃っぽい建物の内部まで確実に熱気を運んできていた。

 ホールにはあまり人はいない。案内所のような中央のカウンターには誰もおらず、待ち合わせのためか通関ブローカーらしいラフな格好の痩せた男達が数人所在無さそうにたたずんでいるだけである。

 ホールを奥に進むと裏の入り口があり、そこから左右に廊下が続いている。どちらの廊下も片側に通関書類審査の事務所があり、廊下との間は2mに届かない位の高さの木で作った仕切がある。その仕切はカウンターになっていてガラスの窓口ならんでいる。通路のカウンター反対側は裏庭を望む窓が開いている壁で、ところどころ開け放たれた扉があり、裏庭に車を止めた通関業者はコンクリートの階段を3段ほど登ってそれらの扉から建物の中に入ってくる。

その裏庭側の通路の壁沿いにはずっと木製のベンチが誂えてある。そのベンチは書類を確かめる者、鞄を握りしめてただ順番を待つ者、携帯電話でなにやら連絡を取り合う者などそういった人達ですでに一杯で、新たに来た者が座れる余地はなかった。

 ガラスごしに見えるオフィスには白い制服を着た税官吏が机を並べていた。どのオフィサーにも業者がそばに立ってなにやら一生懸命説明をしている。若い娘から中年まで女性のオフィサーも多い。彼女達が髪を掻き上げるたびに指輪とネックレスが24金特有の濃密な光の反射をきらめかせる。荷主であろう白人が3〜4人あちこちに立っていて、その誰もが憮然とした表情でオフィサーと激しくやりあっているのが見えた。

 通関の書類審査には何人かのオフィサーに審査してもらわなければならない。自分で書類をもってあちこちに座っているオフィサーを渡り歩いていかなくてはならないのだ。

 その日僕は通関トラブルを起こした貨物の書類の審査のために朝から税関本館を訪れていたのだった。数量単位の記載にちょっとした不注意があり、ある什器が部品にばらされて輸送されてきたために、ものの数量が書類に記載されている数量ととあわなくなってしまい、通関事故になりかかっていたのである。

 通関業者の痩せて眼鏡をかけたタイ人と二人で担当のオフィサーを訪れて事情を説明して何とか虚偽申告の立件を防ごうというのである。その業者の男は細面に銀縁の眼鏡をかけた、早口でしゃべる男で、どこかいいかげんな雰囲気がある。しかし目つきだけは油断ができない詐欺師のそれと同じだった。彼の来ているのは、すこし大きめの無地の薄いブルーの通関業者のユニフォームだが、それがどういうわけかどうしてもアロハシャツのように見えてしかたがない。

 僕達は小柄のがっちりした体格の色の黒い男のオフィサーの机の脇にいて、現物の写真と書類を前にもうかれこれ1時間半立ちっぱなしであった。われわれが話をしようとするとそのオフィサーは片手で押しとどめ、ひっきりなしに来る他の荷物を扱う業者と次々と話をして、書類にサインをし、開いた引出しのなかに紙片を落としこんでゆく。かろじてできた時間の隙間に話を始めると彼は僕達に顔をむけ、説明に聞き入るそぶりを見せるが、すぐに別の業者が机にやってきてまた中断してしまう。もうこんなことを十回以上も繰り返しているのだった。

 「Nさん、どうもだめだから、私が彼のボスの所にいって話をしてくる。」
 僕の袖をつかんで廊下までつれていった彼は、そこでそんなような事を早口のタイ語で言い残して、僕が返事を返す暇もなく通路の人ごみの中を泳いでいってしまった。

 「やれやれ」
 運良くたまたま目の前にあいていたベンチの隙間に僕は座り込んだ。アタッシュケースを開き、携帯電話を取り出して同僚に連絡をとろうとするが、なんど通話を試みても、がさがさという雑音がしてツーという音とともにむなしく切れてしまうだけだった。あきらめて電話をしまい鞄を閉じた。いつのまにか汗びっしょりだった。上着を脱いでワイシャツの袖をまくりあげた。

 痩せた通関業者の男と税関のオフィサーは結託しているなのかもしれない。今頃は何人かのオフィサーといくら金を巻き上げるか、取り分をどう分けるかを相談しているのだろうか。

 連日の寝不足もあって、体の奥のほうから熱気が込み上げてくる。つい、うとうとしたらしい、ふと気がつくと目の前に飲み物を売るおばさんが立っていた。絵に画いたような太目の体をしたおばさんだった。閉じていたのを急に開いた僕の目には、最初彼女のにこにこしている顔しか見えていなかったが、徐々に視野が広がってくると目の前にストローを差したコーラの瓶が差し出されているのに気がついた。

 なんとか明日までに貨物を引き出さなくてはならないという僕の焦りが、何かにすがるように思わずその瓶を受けっとっていた。ストローを抜いて二度息をついただけでほとんど一気に飲み干した。飲み干したあとでひどく喉がかわいていたことに気付いた。

 財布をだそうとするぼくに、どういうわけか彼女はいらないという身振りをした。気がつくと彼女は一言も口をきいていなかった。ぼくは、ほんとうはもうちょっと安いことを知りながら、小銭入れから取り出した10バーツのコインを無理やり彼女の手ににぎらせた。ワイをしてなにやら身振りをする彼女。どうもすぐに戻ってくるからここで待っているようにといっているようだ。こちらにも都合はあるのだが、さりとて今すぐどこかに行くわけでもない。約束を守れる自信はなかったが、僕はだまって首を二度繰り返して縦に振ってうなづいていた。

 もう一度にっこりすると彼女は廊下の奥のほうへ歩いて行き、やがて人ごみに紛れてしまった。

 「ふう」
ため息を一つついた僕は、立ち上がった。もう昼になっていた。

 オフィサーたちは昼食をとりにでかけるために出ていくものもあり、机を離れ同僚同士で雑談をはじめるものもいた。僕はベンチのすぐ脇の開け放たれた外開きの扉から中庭におりた。表に出たとたん頭の上から太陽光線の圧力を感じ、一瞬視界が白く飛んだ。太陽の光は止まっている車のボディや庭の木々の葉の表面からも反射してあらゆる方向から僕を目指していた。

 腕時計を見た。クロームメッキの側に反射する日差しがまたも僕の目を刺した。正午を10分まわったところだった。暑い長い午後になりそうだった。


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