第4回

10%の民主主義(3)

  

 新しい憲法の目指す目的の第一は政治浄化でした。日本の昨今の例を見るように教育や体制が人間の清濁を決めるのではなく、昨日は澄んでいた水が今日を経て明日は濁ってしまうことにたいしてどのような歯止めをめぐらせていくのかが重要なように思います。確かに徹底して監視機能は強化されていますが、この点に関して新憲法はどう機能してゆくでしょうか。

 一昨年だったか国王陛下が「国有地を貧しいものに払い下げるのは結局貧しいもののためにならないからやめるべきである」という主旨の提言をされたように記憶していますが、結局は有力者に翻弄されてしまう無知で未成熟な国民大衆の責任を問うことはできない、という考え方が存在しているようです。民主というところの新憲法は、政治のイニシアチブをミリタリーパワーやマネーパワーから知識中間層やビジネスマンに移そうと意図ものなのでしょうが、起草委員会やマスコミ、あるいはバンコクの中間層(?)には民主的に見えるらしいそれを民主的というのが妥当なのか私には自信がありません。

 タイが立憲君主国であることは皆知っていますが、私も不勉強で、その実いったいタイ国の主権は誰にあるのか、誰の国家なのかという認識が大衆の心の中でどうなっているのか実感できていません。私たち日本人もついつい日本国憲法の主権在民の発想でタイを批評しがちです。文字通り我田引水指向の政治家を排除するのは悪いことではないでしょうし、知識中間層のはがゆさも良くわかりますが、彼等がタイ国の主権に必要十分で一致するものでないことも確かなことのように思います。タイ国の就業人口3441万人、内全国のホワイトカラーは9.5%だそうです。私も、ホワイトカラーでない90%、またバンコク以外に住む90%、あるいは大卒でない90%の国民が置き去りにされてゆくことはないのかこれからも勉強してゆきたいところです。

 私はまったく無責任な傍観者ですが、憲法は国の大本を決めるものであるから、立法司法行政の役割、そしてタイにおいて今後の重要な課題であろう地方自治などもっと重要な議論が、マスコミをはじめ巷にも欲しかったような気がしていました。また都市と地方の違いをどのようにしていくのか、単に所得格差を縮めるという短絡的な思考にとどまることなく、皆が国民の最大幸福のために何を拠り所にするのかという議論や、また民主民主というが民主主義とはそもそも何かという議論そのものについても聞こえてこないものかという気がしていました。そんなことが私にとっては改めて「憲法ってそもそも何だっけ」と考えるきっかけにもなりました。

 戦後の日本において「民主主義とは何か」という問いが常に存在はしていたと思います。その諸説の最小公倍数のようなコンセンサスに、みんなのコミットメントがあって発展を実現して来た一方、今日、迷走する日本の社会を省みるに一人一人が個々人の幸福と国民全体の幸福の関連を考えることが不十分であったことも否めないと感じます。憲法を巡る議論には、タイ国にとって将来への大計のなかで腰のすわった目的と目標、歩く道筋を示す南十字星を探す姿を求めたくなります。それは疲れた母国の人々の顔にいつか再び明るい希望のまなざしがかえってくることを夢見る者が、同様に未来を目指す同胞を求める気持ちであるかもしれません。

(了)

 

 

 


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