第14回

失われたものとは(2)

  

 

日本人がそれを求める意味 

 日本人がタイに来で感じる「日本には失われた人々のホスピタリティ」はタイの人々や社会の一面にすぎませんし、厳しい言い方をすれば「日本に失われた」とかいってタイに求めているのは代替品ということになろうかと思います。自分が日本人であることを望まない人もいるかもしれませんが、それを自分で決めることはできない以上、日本人として日本人のホスピタリティを問わなければならないでしょう。

 タイに来て日本で得られない心の触れ合いを一時的なものとして楽しむのだとしたら、それが旅というものでしょうし、確かに素晴らしいエンタテイメントやヒーリングかもしれません。ただ楽しんでいるのなら、そして失ったなんとかがどうのこうのというのが単なるポーズであるなら、この話はピント外れです。が、体験や感動も、そして発せられる「日本人のそれはどこへ行った」という言葉さえもバーチャルなものなのだというなら、いよいよ本物の人間の人格や生活さえもが、ビデオゲームのスクリーンの向こう側の存在と化しつつあることを思い知らされます。

 人々は必ずしも何か失ったものを探しているだけではないでしょうし、いろいろな意味でタイが好きでタイに来ることも大変結構なことです。しかし多少なりとも「失った」ホスピタリティを求めようという意識を持つ若者たちには、せひともそれを日本でも探して欲しいという思いを禁じえません。見つかったものを育てて行く、また見つからなければ砂に水まくようにでも自らが作って行くという態度こそが、今「失われたもの」なのではないでしょうか。それに気づかなければ15年後のタイで「誰かが、何かがここもだめにしてしまったのだ」とつぶやくだけに終わってしまうのです。 

 

 

 

 


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