第15回

失われたものとは(3)

  

 

日本サラリーマンの怠惰 

 ホスピタリティとは人との交流の中にあり、交流といえば地域社会にその多くがあります。筆者も疲れていればついつい人にぞんざいにあたり、面倒なら近所付きあいも避けたりして、普段あまり努力と言えるようなことはしていません。これは多くの日本のサラリーマンも同様と思います。仕事一辺倒の猛烈サラリーマンへのアプリシエーションはすっかり消え去りましたが、仕事を言い訳にすれば何からも逃げられた世代の残渣はまだあります。こうした地域社会参加へのプレッシャーがまた一種の後ろめたさや焦燥感を増幅して、サラリーマンのストレスに輪をかけます。過酷です。

 筆者もタイ人の「Namjai」の美しさや脆弱さに触れ、日本人のホスピタリティを想うなかで、それまで自分がまったくと言ってよいほど無関心で来た人との交流や社会参加にいずれは少なからぬ時間を費やしてゆかねばならないと思うようになりました。自動券売機の列に並ぶお年寄りにいらだちを隠してこなかった自分変えて行くことから始めなくてはなりません。社会制度にも会社にも助けはなく、これまでにろくな教育や社会的訓練を受けてこなかったためにこういうことに私たちはまったく不得手です。

 今の日本の社会には、ホスピタリティのみならずモラルさえも失って省みない輩があふれています。 自分のことしか考えないことを、都市生活や時代の流れや社会の仕組にその責任を転嫁できるものでしょうか。「日本人」や「日本の社会」とはつまるところ、日本人ひとりひとりの集積にほかならないのですが、「日本人が忘れた」とか「日本の社会には失われた」という物言いには、「日本人が失った」ということが「自分が生み出していない」ことと同義であることをつきつめない日本的な甘さがあります。

 

(了)

 

 

 


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