第21回

学歴社会を考える(2)

  

学歴は実力の証明か

 以前日系企業は学卒の就職先として人気は高くないということを述べましたが、筆者の勤務先に関しては事実で、募集をかけても優秀な人材がたくさん入社を希望してくるわけではありません。本当に人材の逼迫した時期、大卒技術者の採用試験のペーパーテストの答案は惨惨たるものでした。数枚のギヤのかみ合わせの回転の計算もできなかったり、簡単な二次方程式が解けなかったり、簡単な製図が読めなかったりしました。英語の見事な大卒事務員を採用して一枚の表の縦横集計をやらせると、検算はしない。間違いを指摘すると「私は数学は専門ではない」と平然と答えました。学歴の証明する実力とは何か日本人の感覚にあわないことばかりです。 

 こういった知識や思考能力の水準の問題と同時に、口ばかりで、書くことを含めて手が動かない、体が動かないことなども悩みです。実力主義が学歴主義に優越を主張するに、普通一般こういうことを根拠にするのでしょうが、それは我々にとってまさに現実でした。

 しかし、それでも学歴はある程度何かの証明になるという感慨を持つときがあります。習っていなければ電気のプラスマイナスも知らず、分数の計算もできません。読み書きに始まって、財務諸表の見方まで現代の産業社会で仕事をする基礎的な能力の程度を判断することは学歴をもって可能な部分があります。

 日本の大卒者もその専門知識と応用力には心許ないものがありますから、学歴と能力や実力の相関も、社会の違いというより程度の問題という気もします。ともあれ、タイにおいて学歴は実力の証明かと筆者が問われたならば答えはイエスであり、その証明されている能力水準が高いとは言えないこととばらつきが激しいこともやはりイエスです。物差しとして機能するが信頼性や精度は低いということになりましょうか。

 

 

 


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