第23回

学歴社会を考える(4)

  

エリートの責務と自覚

 高等教育を受けたタイの人たちに、鼻につくようなエリート意識や選民意識を感じることもあります。しかしながら、科学、技術、社会制度、思想に関する知識をもち、それらを応用して国家を建設して行くなかで、学問を修めたエリートの役割には大きなものがあります。「殖産興業、富国強兵」の時代、またそれらから「強兵」だけがとれた時代、日本においても同様でした。国民の多くが「自分たちは『国造り』のフェーズに居る」という認識をもつとき、エリートの役割は明確で自覚も確かなものでしょう。タイの官公庁やビジネス界の人たちと話しているときに、それは確かに感じます。今となっては社会的責務など意識の片隅にも無いような日本の高等教育修了者に見られない責任感です。

 「人が社会建設に必要な知識や技能を有するか否か」「個々人のもつそれが実際に有効なものか否か」「それが学歴で判別が可能か」「その知識技能が有効に生かされるような社会的な環境や制度があるか」「社会を構成する様々な層の人たちがそれをどう受け入れるか」、これらはそれぞれ別の論点となりうるでしょう。切り分けて考えることは可能ですが、普段の日本人の学歴と実力の話題のなかでは、それぞれ力点の置き方のちがいを持ちながらもこれらのことが漫然と一緒に語られがちです。

 現代日本人は、戦後の平等教育と出る杭を打つ性質により、エリートの突出を嫌う一般的性向を持つと言い切ることも可能と思います。タイにおいてエリートの役割やリーダーシップは重要です。今日、日本でもリーダーシップが求められていますが、それは学問的エリートのそれとは違います。事情の異なるタイにおいて学歴重視の是非を論じるのは日本人にとって単純では無いと言えましょう。

 

 


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