第64回

コミュニケーション(5)

  

 

 考えた末「こうする」と決めて行動するのが理性的人間とすれば、何事も常に「どうしてそういう行動をとったのかが説明できる」のが理性的人間ということになります。

 仕事でも誰かが何かトラブルを引き起こしたときに「どうしてそうしたのか」を問いますが、それに答えが返ってこない人たちがいます。単に言いづらいのではなく、本当に自分でも良くわからないのです。こういう人を覚醒させ育成していくのは大変です。

 タイではそういう人に遭遇する頻度が高いと感じます。指示がなければ何もしない、何もできない、「考え、判断して行動する」という習慣の形成されていない人です。仕事や教育の場で、上司の意に沿うこと、先生のいうとおり行うことが良しとされ、時には真実や真理、正義の追究に優先することすらありそうな環境で育ったためでしょう。

 そういう人間にも個性を無視されることに満たされない心、あるいは強権や圧政に反発する心は意識されずに存在しています。その欲求不満は、公然と追求される「従順、服従」との葛藤を生じますから、それを解決するため判断と責任、そして自我を放棄していくことになります。言いかえれば何でもいわれたとおりにやって誉められ評価される世界で生きて行くには無責任になるしかないのだとも言えます。

 そこで何か失敗したときに叱責されると何が起こるでしょうか。上から評価されるために自分が築いてきた「従順、服従」の価値を全否定されるようなことがあれば、バランスが崩れてそれまで押さえられてきた欲求不満が表に現れることになるでしょう。反発が無責任な形で噴出するとそれは逆恨みにもなります。

 一見脈絡のないような反応のなかにもちゃんとメカニズムがあるように思います。「責任感をもて」とか「考えよ」という言葉の作用に注意したいものです。

つづく

 

 

 


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