10%の民主主義

 

 新憲法草案は圧倒的多数で国会で採択されました。反対派のデモまで組織したサノ内相までが賛成したのは開いた口がふさがりにくいきらいもありますが、タイならば許しましょう。

 この新憲法草案は一種の踏み絵になっていました。賛成しなければ非民主的、汚職利権の輩ということになっていたのです。 わたしは現憲法、新憲法草案全部を知るわけではありませんが、どちらを選んだら国が良くなるという性格のものには見えませんでした。新憲法草案には良さそうなところもありますが、ちょっと首を傾げるところもあるからです。

 「閣僚は議員を辞職しなければならない」とか、「上院議員を直接 選挙で選ぶ」とかよく議院内閣制とか政党政治とか二院制とか現実を吟味しないといけないのですが、ちょっと全体の整合性は「?」という表面的な民主性をもとめて性急に作られたところも感じられます。

 そもそもこの憲法草案は政治家を排した起草委員会で作られ 、基本的に政治家の汚職をなくすことを目的に、徹底的に政治家不信のポリシーで作られています。「信用されてない人がいい仕事をするか」というような疑問もあります。今回の草案づくりのなかで一番文句をつけたのは一番リベラルと言われる民主党でした。それほど事情が簡単でない一例です。

 「議員や閣僚を(それに選挙管理委員をも)大卒に限る」とか日本人的基本的人権感覚にはなじまないところもあって、一概 に民主的だとか理想的だとかいいづらいところがあります。良識と判断力のある学卒の市民が汚い政治家や無知な大衆を指導するというスタンスがそこには感じられます。

 タイの就学人口のうち大学生は約9%です。就学生の比率を適用するのはあまり正確な推定にはなりませんが、数字でいえば1割の国民があとの9割の国民を導くということです。まあ「一部の汚い政治家に惑わされるより大衆にとってそれはいいこと」という論理なのでしょう。基本的にはバンコクの学者や役人やビジネスマンによって作 られた草案です。彼らの論理に支配されています。

マスコミはバンコクの中間層の民意を世論として報じます。 が、バンコクで投票するバンコク都の登録人口は約6百万人でこれも全国民の1割です。国会で新憲法草案が否決されたら次は国民投票ということだったのですが、そうなれば地方の票が大勢を決して、否決の可能性が高かったと言われます。なぜそうなるのか、是非は別としてここは私たちもよく考えなくてはならないところでしょう。

 私自身はバンコクの中間層のホワイトカラーやビジネスマン は時代にマッチした感覚はもっているかもしれないが、全体をおしなべてそれほど自らをよく知って、責任感を持ち合わせているとは思いません。そもそも今の経済の破綻を招いたのは彼らのアティテュードです。BBC(バンコック・バンク・オブ・コマース)やアルファ・テックの野放図な経営をみてください。(アルファ・テックのケースは最近の「日経ビジネス」に「WallStreet Journal」の解説記事の翻訳が載っていました。)また金融会社や不動産の惨状をみてください。これほどのモラルにかけるホワイトカラー達が重い罪に問われないのです。「かつてタイにおいてホワイトカラーが罪に問われたことはなかった」という記事の記述を信じられない思いで目にされたかたも多いでしょう。

 ファイナンス・ワンという金融会社破綻のケースにみられるような、MBAを外国でとった先進国の派手なまずいところをまねした輩たちの始末なのです。たとえ破綻に瀕していなくても同類はたくさんいます。だれにも防げなかったこの事態の責任が自分たちにあることを認識せず、旧来の権力者やあわれなチャワリット首相を血祭りにあげることは無責任窮まりないとも言えます。まず反省すべきなのは彼等ではないでしょうか。

 モラルに欠けるこれら経営者彼らにその反省はほとんど見られません。そしてこの体質は決して経営者やエスタブリッシュメントにとどまるものではないように思います。若いサラリーマンたちも同じです。ただ儲かるからという理由で株を買い、過大なローンを組んで車や不動産を買い、仮需を作り出して拡大された自動車工場は急激な能力増強、輸出が伸びる暇もなくいまや隔週操業などでメーカーによっては40%の減産、労働者は大量解雇されています。

 そんなビジネスマン達が自らの責任を棚に上げ政治に責をを求めるのは、ある意味では思い上がっているように 私には思えます。地方の農民たちの目に彼らがどう映っているでしょうか。「タイではつねにだれかのせいなのである」という同じ「WallStreet Journal」の記述はあまりにも寂しい。

 私がこの駄文をまとめるにあたって前提にしていることを整理してみましょう。(もちろん間違いや誤認もあるかもしれないです。)

■ 通常マスコミに取り上げられる世論といわれているものはバンコクの都市住民のものであること。(これは英字紙の例ですがバンコクポストの世論調査はいつも読者への電話調査です。)

■ 国民の8割以上を占めるバンコク以外の居住者はバンコクの都市住民とはまったく違った政治に対する行動をとること、事実これまでの選挙を見てもバンコクと地方では勢力をもつ政党はまったく異なっている。

■ 選挙に際しては票を買うことが常態となっていて、地方においてこの傾向が強いこと。

■ 今回の経済の不調と憲法改訂は直接的関連のあることではないこと。

■ 地方のいわゆる無知な?農民は権力者に金と便益でむすびついていること。

■ 民間の高等教育をうけた知識層は先進国にあるような民主的?な制度、透明な民主主義を望んでいて、彼らには「これを阻むのは、利権を追及する既存政治家とこれにとりこまれた地方住民であって、これこそがタイの後進性を引きずる汚点である」という認識があること

■ 今回の憲法草案の起草委員会のメンバーは政治家を排しこの知識層をかなりとりこんでいて、この主張にもとづくものであること。

■ 地方農民は文章を書くこともなく自らの主張も政治家や他のインテリの弁を借りるしかないこと。自ら政治的な意思をもつことも普通の農民にはまれなこと。

 これらの構図は日本にもあった、あるいはいまだにあるものかもしれません。

 ここまでに述べてきたようなことを考えると、知識人やビジネスマンは本当に民主的なのかどうか、「大卒の知識層が正しく国をみちびくから、民主主義や高度な産業社会、国際スタンダードを理解しない無学で無知なその他大勢と権力思考の金にまみれた恥ずかしい旧権力層はだまってみていなさい」という彼等の論理に問題はないのかという疑問がわき上がってきます。

 若干話がそれますが、実はここがタイの知識人やホワイトカラーがクーデターをかならずしも否定しない体質につながっているのだと私は感じます。いちいち選挙などを通じて学も判断力もない人間に政治や行政に口をださせて非効率にすることに対する、いらだちがあるようなのです。91年のクーデターのあと、私が個人的に話を聞いた人達(ほとんどがホワイトカラーです)はたしかに軍隊は嫌いだが、効率的な行政が期待できると言ってました。それに事実アナン暫定政権はめざましいスピードで実績をあげ、そのことでたいへんな支持を得ています。それがクーデター政権のもとの非民主行政であったことはまったく問題にされません。

 現実は92年騒動のときもこうした学生やビジネスマンがハンガーストを支持し、サナムルアンに集まったわけですが、流血の惨事のときにはビジネスマンなどはとっくに逃げてて、純真だが舞い上がった学生と雷同して盛り上がったグレーカラーたちが血を流したということができるでしょう。大学教授などは現場にいたという話は聞きませんでした。

 私にはこのホワイトカラー、ビジネスマンや知識人あるいは中間層が独善的に見えるときがあります。現政権を非難するこの人たち自身も現在の経済の困難に対する処方箋をもっているようには見えません。また彼らが地方の農民や貧しい人達、サイレントマジョリティーの幸せをどう考えているのかよくわかりません。(現在でも彼等はたいへん幸せともいえますが。)

 さて、今バンコクのホワイトカラーにはチャワリット首相の評判は散々です。

 チャワリット将軍は92年の騒乱のときは軍部では民主運動を支持するグループ(つまりクーデター派と対立するグループ)だったと私は記憶しています。彼の部隊がクーデター軍討伐に決起したといううわさが92年の事件の最中に聞かれました。

 「チャワリット氏は口は甘いことをいうが言行不一致で朝令暮改、八方美人の優柔不断」というのが悪くいうときの評判です。翻って地方の貧乏人の味方というのも彼の役回りです。先日の集会もそういう地方の貧乏人などがチャワリット氏を励ますというものでしたが、もちろん「動員したもの」という風評がたちました。バンコクのマスコミにかかるとこういう扱いです。たとえ交通費や日当を支給した動員だとしても、簡単に片づけてしまえるものではないと思います。何もなければ黙っているだけの人たちかも知れないし現実に交通費もない人たちなのかもしれない。バンコクのインテリからすれば弱いもの、貧しいのものの味方という姿勢は卑怯にも見え苛立ちの対象なのでしょう。その気持ちもわかります。

 チャワリット首相本人としては新憲法草案にそれほどむげに反対一辺倒ではなかったのでしょうが、地方を見たときどちらとも言えずに、「国民の決めること」という発言をくりかえしていました。為替相場で「首相がはっきりしない」ということをむりやり材料にしてバーツが下がるものだから結局9月なかばには新憲法草案賛成を表明せざるを得なくなりました。

 チャワリット首相の奥さんが占いに凝っている迷信深い人だということも有名です。95年の皆既日食のとき、チャワリット氏をはじめ高官数人は国外に出ました。日食が国に災いをもたらすという迷信に従ったのです。最近はラッキーナンバーは5というお告げにしたがって内閣改造のときも変えるのを5人にしたり、自宅を引っ越すさいの番地を5番地にしたそうです。これを笑うことは簡単です。で、確かにインテリ層には評判よくなるような行動ではないですね。私にも違和感はあります。(「まつりごと」の起源を思い起こしてちょっと感慨深いものもありますが。)しかし迷信はまさに都会の住民にして見ればタイの田舎ものの後進性の象徴として近親憎悪、そして嘲笑の材料になっているようです。

 チュアン元首相の率いる民主党がバンコクのホワイトカラー、ビジネスマンに支持されていますが、これらのホワイトカラーは国民の1割程でしょう。(タイ国の就業人口3441万人、ホワイトカラーは9.5%です。工場労働者は19%、販売員は11%です。)民主派vs利権政治家たちという(作られた?)構図のほかに、バンコク市民vs地方の農民やその他の大衆、という構図があり、知識層にはこの農民やその他の大衆は利権政治家に取り込まれた無知なひとたちという認識は動かし難いもののようです。話していてバンコクのビジネスマンははっきりとこういう言い方をする人が多いです。新憲法草案で国会議員や閣僚、そして選挙管理委員まで大卒に限っている点について意見を求めても一点の疑問もないようです。

 もちろん農民のほとんどは所得税も収めていないかもしれない。(日本でも納税額で参政権があたえられた過去がありますね。)また言い方によっては彼らは確かに愚かで国際社会に通用する政治経済のリーダーシップをとることは不可能でしょう。

 しかし、何が今のタイで民主的なのか、あるいは今の危機をのりきるために誰が政権を掌握すべきなのか私にはまだまだ考えを整理する余地が多いです。バンコクのインテリの身勝手には「こいつらにまかせておいていいのか」という思いもよぎります。しかし旧来の政治家や貧乏人はやはり問題の外なのでしょう。

 さて今回の新憲法の目的である政治浄化について考えてみましょう。

 日本の昨今の例を見るように教育や体制が人間の清濁を決めるのではなく、昨日は澄んでいた水が明日は濁ってしまうことにたいしてどのような策をめぐらせるのかが重要なことのように思いますが、この点に関しての光明が新憲法草案のなかにあるとは思えないのです。たしかに監視はできるかもしれない、徹底した政治家不信が根底にある以上、政治家が必要な場面でリーダーシップを発揮することを疎外する要因もあるでしょう。このような「政治家が信用できない」といっているような憲法自体国の恥という人がでてきてもおかしくないはずなのですが。たとえそれが事実であっても。

 政治家の汚職は憲法ではなく普通の法律を作って防げばよいとも思いますが、法律を作るのが役所や議会であれば、それも難しいのかも知れない。今回政治家を排してつくった憲法草案だからこそ成立したことなのかもしれません。

 国王陛下が「農民への国有地を貧しいものに払い下げるのは結局貧しい者のためにならないからやめるべきである」と提言することに見られるように、タイではやはり「権力や、金や、知識や技術を持つものが無知な国民を率いる」という考え方が一般的なのでしょう。民主というところの新憲法草案ではそのイニシアチブをミリタリーパワーや金から知識中間層やビジネスマンに移そうとするものかもしれず、本人たちには民主的に見えるがそれを民主的というのが妥当なのかどうか、もとより答えはないのではないかと思います。

 私から見れば、彼等と旧権力層にあまり違いはないように思えます。暴力や汚職に染まった政治家を排除するのはいいことでしょう。しかしそのことが置き去りにされた90%の国民にとって何を意味するのか答えている人はいないようです。

 タイが立憲君主国であることは皆知っていますが、絶対でありながら明確でない国王陛下を含め、その実いったいタイ国の主権はだれにあるのか、だれの国家なのかという議論はあまりないのです。いやあるかもしれないが誰かが言葉で述べた結論が現実とあっているかどうか疑問です。私はタイに限らず知識中間層もまた責任感の乏しい人たちたちであるということもできると思いますので、必要な局面でリーダーシップを発揮できるのかは疑問です。憲法制定という局面で議論されるべきことがあまりされていないように感じます。知識中間層のはがゆさは良くわかります。しかしながら彼等がタイの主権の一部でこそあれ、そのものすべて、あるいはその代表なのかどうか、だれも議論はしていないように思うのです。

 タイの憲法について言えば、これまでクーデーターや学生決起により、暫定憲法、恒久憲法が制定される繰り返しで1932年の立憲革命以来65年間に正式とされる憲法で9回、暫定憲法は6回も制定されています。今回の新憲法も来年には改訂されている可能性も高いです。(それも「去年の騒ぎはなんだったの?というくらいあっけなく」かもしれない。)

 私は、今の実情を顧みれば10%の人たちがタイ国を動かして行くことについて異論をもっているわけではありません。しかしそれは民主主義とは別の次元のことと思われてなりません。

 憲法は国の大本を決めるものですから、議会や行政の位置付けや現在の司法行政立法の役割、そしてタイにおいて今後の重要な課題である地方自治の確立など本来もっと重要な議論をもっとするべきではないのかと私は勝手に感じています。「民主民主」というが民主主義とは何か真剣な議論をもっとすべきではないかと思います。また都市と地方の違いをどのようにしていくのか、単に所得格差を縮めるという短絡的な思考に陥らずによく考え自らの問題とする姿勢がバンコクのホワイトカラーたちに欲しいように思います。

 国民の最大幸福のために各人が何を拠り所にしていくべきなのか。国家百年?の大計のなかではっきりと腰のすわった目的と目標、歩く道筋を探す南十字星を議論すべきなのではないかと思うのです。

 


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